商人・武士・役人・芸妓・旅人が集まり、
政治の裏話・経済・軍事・ゴシップまで雑多な情報が流れ込む“夜の情報ネットワーク”だった。
出入りすることは
遊び・情報収集・人脈構築・非公式外交
を一度に行うことに等しい。
現代の政治家が深夜にSNSを監視し、Xで反論するようなものだが、幕末の方がはるかに濃厚で人情も深い。
坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、桂小五郎(木戸孝允)。
そして例外としての山県有朋。
彼ら全員、品行方正な人ではなかった。
だが、情熱と人間力で時代を動かした。
坂本竜馬──自由・女・酒・情報戦に生きた“夜の外交官”
花街は竜馬の情報収集基地だった
長崎・丸山や京都の花街は、竜馬にとって最新の情報ハブ。
政治家、軍人、商人、外国人、芸妓…全員が出入りし、情報が交差した。
竜馬が「龍馬さん、また来たん?」と声をかけられる常連だったのは、遊びだけでなく、情報戦の最前線に立っていたからでもある。
借りて、使って、また借りる金銭感覚
竜馬の金銭管理は自由すぎた。
- 借りた金で友を奢る
- 海援隊の会計は“だいたいこれくらい”で済ませる
- 帳簿係を泣かす
それでも人が離れないのは、竜馬の人柄と情熱の大きさゆえ。
坂本竜馬とお竜──日本史に残る“最初の新婚旅行カップル”の実像
竜馬とお竜(おりょう)の関係は、教科書でよく見る「仲睦まじい夫婦」よりもっと“濃くてドラマチック”。
二人の関係は、恋・革命・逃避行・日常生活のドタバタ
すべてが混ざりあった “幕末版ラブ&アドベンチャー” と言っていい。
1. 出会い──「命を救われた」ことで恋が始まる
お竜は京都の医者・楢崎将作の娘(3姉妹)。
竜馬と出会ったのは「寺田屋事件」の後。
1866年、伏見・寺田屋にいた竜馬のもとへ、
お竜が女湯から全裸で飛び出し、竜馬に危機を知らせた
という有名なシーンがある。
竜馬:「お竜は千金の命を助けてくれた」
この“身体張った救出劇”で、竜馬は一気にお竜に惚れる。
2. 性格──“自由人 × 破天荒女子”の相性
竜馬は自由奔放。
お竜は遠慮ゼロの豪快女子。
気が強い
怖いもの知らず
竜馬の前で煙草を吸う
好き嫌いがはっきり
竜馬の仲間とも対等に喋る
当時としては“女性の型”から完全に外れたタイプ。
竜馬はこの気質をむしろ面白がり、
「お竜は男勝りでええ」と周囲に語ったと言われる。
3. 結婚生活──ほぼ「放浪の夫婦」
竜馬は転々と移動し続けたため、
夫婦生活は一般家庭のようにはいかなかった。
寺田屋
長崎
下関
薩摩
海援隊の中
各地の旅
**日本史でも類を見ない“旅する夫婦”**だった。
家計はほぼ竜馬の仲間や支援者の援助で賄われ、
お竜は着物を質に入れて生活することもあった。
4. 日本初の新婚旅行──薩摩への避難が“旅行”扱いに
寺田屋事件後の療養名目で大阪天保山から船で薩摩へ。
これが “日本初の新婚旅行” とされる。
霧島温泉
塩浸温泉
霧島神宮
竜馬が日記に「日本初の湯治旅」と書き残したため、
後に“新婚旅行”として有名になった。
しかし実態は、
刺客から逃げる避難行プラス観光。
ロマンと緊張が入り混じった幕末ならではの旅路だった。
5. 夫婦関係のリアル──仲良しだけではない
竜馬が亡くなった後、
お竜は再婚し、京都→東京→横須賀と各地を転々とし、
晩年は極めて貧しい生活に。
竜馬の家族(坂本家)と関係が悪く、「正式な妻として認められなかった」という説も強い。
竜馬の器量に惚れ、
竜馬はお竜の豪快さに惚れたが、
現実の結婚生活は決して順風満帆ではなかった。
しかし——
「竜馬を心の底から愛し、命を張って守ったのはお竜だけ」
という歴史家の評価は揺るがない。
高杉晋作──モテすぎて妻に怒られた“革命的遊び人”
京都木屋町で“遊郭王”と呼ばれた男
高杉晋作は遊郭での人気が異常だった。
恋文が束で届くほど。
妻・雅から「遊びすぎです」とガチ注意されている。
実は遊びながら「長州藩の機密」を拾っていた
遊郭は情報センターだったため、晋作はそこで藩の動き、他藩の噂、幕府の情報を拾う。
つまり「遊び=情報収集」。
遊びと革命が地続きの男だった。
高杉晋作は三味線も達者、都都逸も愛した“粋な遊び人”
高杉晋作は、
剣も頭も切れ、革命もするくせに、
三味線を爪弾き、都都逸をうたう粋な遊び人でもあった。
京都の花街・下関・長崎でも芸妓からモテまくり、
遊郭で都都逸を謡う姿は“色気の塊”だったと言われている。
「彼が謡ったと伝わる」 有名なものがいくつかある。
三千世界の烏(からす)を殺し
主(ぬし)と朝寝がしてみたい
①「浮いて流れて 茶屋町あたり
紅のしがらみ ついてくる」
遊郭に通いすぎて、
“紅(べに)の匂い=芸妓の気配” が体に染みつくという意味。
②「惚れたが因果よ 夜船の別れ
夢で逢うても つらかろな」
志を追って動き続ける晋作が、
愛だ恋だと言いながら「すぐどこかへ去る」男だったことを象徴。
③「恋に焦がれて 鳴く蝉よりも
鳴かぬ蛍が 身を焦がす」
実は晋作の性格に一番近いと言われる。
表向きは軽く見えて、
内面では激情と孤独で燃えていた男だった。
長州藩の金をツケで使う
- 遊郭代
- 酒代
- 兵の飯代
全部ツケ。
「遊び人の皮をかぶったスパイ兼革命家」を藩の上層部も「晋作だから仕方ない」と諦めたという逸話まである。
晋作が死んで7か月後に大政奉還が起き、その翌年に明治維新が始まる。
木戸孝允(桂小五郎)は晋作の死を知り、涙を流したと記録にある。
西郷隆盛は晋作を「奇策の天才」と称えた。
同郷人伊藤博文に至っては、「晋作が生きていたら、維新政府はもっと違った形になっていた」
と語っている。
革命家としての影響は桁外れだった。
有名な辞世の句
晋作の辞世は有名。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
続けて家臣(家人?)が添えた。
「すみなすものは 心なりけり」
晋作の人柄・人生哲学が凝縮されている。
伊藤博文──女遊びすぎて天皇に注意された“初代総理”
色恋沙汰で新聞に載るレベルの女好き
伊藤は遊郭・芸妓・妾と広く深い女性関係を持っていた。
東京の新橋芸者界でもスターで、恋文が山のように届く。
「女遊びの証拠として“恋文が新聞に載った”初の総理大臣 として有名。
その後、マメなスケベじじいが日本国紙幣になっていた。
女性(芸妓)の容姿や素行を褒めまくる
新聞に載った部分の一部引用(意訳残存)
「君の目元の愛らしさ忘れ難く候」「遠くにいても面影が胸に残る」「そなたの言の葉こそ慰め」
完全に“ロマンチックおじさん”。
■ 金銭・贈り物の話も書かれていた
着物・帯・髪飾り・小遣いをあげる
などに触れる金銭的な記述があったため、新聞側はこれを「権力と女遊び」として煽り立てた。
さらに有名なのは「芸妓・お鯉(こい)さん」事件
伊藤の女性関係の代表的な相手として、
京都の名妓「お鯉(こい)さん」の名前が挙がる。
伊藤が10年以上にわたって贔屓した
お鯉のための金銭支出が噂になった
その関連文書が新聞に取り上げられた
これが「伊藤博文・艶文事件」のもうひとつの核。
※お鯉さん側から手紙が流出した可能性もあるとされる。
天皇が叱責した背景にも“艶文スキャンダル”がある
明治天皇が伊藤に
「女遊びが過ぎる」
と注意したという話は有名だが、
これは 艶文が新聞に載った時期と一致する。
つまり——
「総理が色恋スキャンダルを新聞に晒されている」=国家のイメージ汚損
として、宮中でも問題視された。
豪遊しても成果を出す怪物政治家
- 飲む
- 打つ
- 買う
すべて全力。しかし政治の成果も全力。
善と悪の濃度が極端な男だった。
西郷隆盛──情に生き、遊びにも生きた“豪快な巨漢”
実は若い頃は“三拍子揃った遊び人”
鹿児島の遊里での逸話が多数。
飲む・打つ・買うの三拍子を揃えていた。
借金まみれでも困った人には惜しみなく使う
薩摩藩の給金だけでは足りず借金が多かったが、
弱い立場の人に大量に施す。
金に粗いが、情は誰よりも深い。
睾丸炎?と月照との入水自殺未遂
鹿児島の城下では
「西郷どんは若い頃、とにかく夜の遊びが激しかった」
という逸話が多く残る。
当時の梅毒・性病が原因となるケースが多い
19世紀の睾丸炎は
性行為感染症(特に梅毒・淋病)
不衛生な環境
過労
栄養不足
が主要原因。
西郷の生活は、ストレス過多 × 夜遊び × 衛生悪い遊郭だったため、医学的に見て“極めて自然な推測”。
西郷自身が治療後も歩けないほど苦しんだ記録
長期間の伏せ込み、激痛の記録などからかなり重症だったことがわかる。
西南戦争でも歩けないから籠に乗っていた。
1858年「月照とともに鹿児島湾で入水」
幕府に追われた僧・月照(つきてる)を連れて西郷が薩摩へ帰国。
しかし島津藩は月照を匿うことを拒否。
そこで西郷は、「月照と生死を共にする」と決意し、二人で海に身を投げた。
結果
月照:溺死
西郷:生き残る
この「生き残った」ことを西郷自身は極めて重く受け止める。
西郷は完全に性格が変わったと記録されている
史料から西郷は
明るい
豪放磊落
遊郭大好き
豪快な飲兵衛
だったのに、入水事件後は別人になります。
笑わない
深い罪悪感
寡黙
禁欲的
厳格
きる、という覚悟のようなものが生まれた。
この後、西郷は奄美大島へ“流刑同然の配流”
月照を死なせた責任もあり、島津藩は西郷に「島流し」を命じた。
奄美で妻・愛加那(あいかな)と結婚し、心の傷と向き合いながら静かに過ごす。
※愛加那との関係は非常に深く美しいが、後に鹿児島へ戻る際に別れざるを得なくなる。
月照は西郷にとって何だったのか?
歴史家の間では一致している。
「西郷の心を根底から変えた存在」
月照は西郷に
尊王思想
自己犠牲
“世のために死ぬ”という哲学を強く植え付けた。
西郷が後に
禁門の変
長州戦争
戊辰戦争
明治政府、征韓論(征韓の口実として、自分は殺されに朝鮮に行く)
西南戦争
などで「命懸けの決断」を迷わずできた背景には、この“死の体験”がある。
桂小五郎(木戸孝允)──実は“遊郭潜伏の帝王”
京都の芸妓界で「竜馬よりモテた」男
堅物のイメージとは真逆。
京都の芸妓界では圧倒的モテ男で、潜伏先の多くが遊郭だった。
芸妓・幾松とは“命がけの恋”
幾松は桂を命がけで匿い、助け、食べさせた。
現代でいえば、政治家がSNSで炎上しても、
全身全霊で支える“超インフルエンサー妻”のような存在。
※維新前の桂小五郎には、本妻の“お琴(千鶴子)” という女性が存在しました。
幾松(お幾・のちの木戸松子)
元は京都木屋町の売れっ子芸妓
桂小五郎が幕府に追われて潜伏する際、
命がけで匿い・支え・物資を整えた“伴侶的存在”その献身ぶりは史料にも多数残っている
維新後、正式に結婚し「木戸松子」となり、木戸家の“奥さま”として振る舞う
つまり、
恋人→同志→正式な妻
へと“長い信義と愛情の軌跡で結ばれた”特別な関係。
しかし桂小五郎には、幾松と出会う前に、正式に結婚した妻・千束(千鶴子) が存在した。
しかし当時から周囲はこう見ていた:
「桂と千束は夫婦関係と言える状態ではなかった」
理由は…
小五郎はほぼ家に帰らない
政治活動・潜伏・遊郭潜伏で離れ離れ
正妻との生活より“夜の京の街”に出入り
実質的に破綻状態
だから幾松を“事実上の妻”として扱う人が多い。
現代人の感覚では「何てひどい男」でしょうね。
更に輪をかけて
実際の記録
桂が潜伏する際、複数の芸妓の家に身を寄せた
幾松以外の芸妓の名前は史料に残っている
(ただし実名までは残らず、“木屋町の若い芸妓”などの記述)夜の京の街での“遊興三昧”は複数の回想記に出てくる
幾松の登場前後も、桂の周囲には常に複数の女性がいたのは間違いない。
長州藩邸の侍女との関係
1860年代初期、桂は藩の仕事や潜伏の際に“長州藩邸の侍女”と関係を持ったとの証言が残る。
侍女は
桂の世話
逃亡時の補給
匿うための連絡係
などを担当し、そこから親密になった例があると複数の記録に出てくるが、名前は残っていない。
●大阪・大坂天満の妓楼での潜伏
特に
天満
堂島
北新地
では、桂が潜伏していた“妓楼(遊郭)”の存在が藩の記録に残る。
たびたび「女と消える」桂(逃げの小五郎)
これが実は一番有名。
維新志士の間では、桂の逃走癖をこう揶揄する言葉がある:
「桂は金が尽きるとどこかの女のところに消える」
木戸孝允の伝記にも残る逸話。
これはつまり、桂は潜伏のたびに女性のもとに身を寄せていたという意味でもある。
しかし、政治交渉力は維新最強クラス。
夜と政治の両立能力は異常値。
例外:山県有朋──金満政治、権力を握った“明治の影の支配者”
妾多数・愛人スキャンダル常習犯
山県は女癖が悪いことで有名。複数の妾、愛人問題が絶えず、文学作品のモデルにもなるほど。
この御仁、前の5人と比べて現在でも不人気。
その後の独裁者たちと似てますね…。
その理由とは?
金づかいも豪快、だが政治は冷徹
軍・政治・人脈づくりには金を惜しまない。
私生活は派手だが、政治では冷静で明治後半の裏の権力を握った男。
軍と官僚機構を完全に掌握した“裏の支配者”だったから。
良い悪いではなく、「山県を外したら国家が回らない」という空気を本人が作り出していた。
だから、多少のスキャンダルでは誰も逆らえなかった。
いわゆる “恐れられた男” だった。
① 明治軍部の創設者であり、実質トップだった
山県は「日本陸軍の父」つまり軍を完全に握っていた。
② 官僚制度の“設計者”であり、明治国家の基盤を作った
山県は軍だけでなく、内務省(警察、地方行政)も握った。
つまり、
警察
県庁
地方議会
治安維持
内政の実権
官僚人事
全部、自分の息のかかった人間で固めた。
日本の官僚制度の根幹は山県モデル。だから政治家たちからすると、
「山県に嫌われる=政権運営不能」
という構図だった。
③ 吉田松陰門下の“長州閥”のボスだった
明治政府の中心は、山口県(長州)・鹿児島(薩摩)・土佐・肥前の四藩。
このうち、
陸軍 → 長州閥
外交・政治の中核 → も長州が強い
山県は“長州閥”の総大将だったため、派閥でのバックアップが圧倒的だった。
④ 政治の裏側は「山県の好き嫌い」で決まった
総理大臣の人事
閣僚選び
重要ポスト
これらが山県の“院政”によって決まる時代が長く続き、表の総理大臣は別にいても、政治家はみんなこう思っていた。
「本当の権力者は山県」
だから、豪遊しようが、妾を囲おうが、誰も止められなかった。
当時の“金満・女遊び”逸話
① 東京・椿山荘を建て、庭園を拡大し、財界人との社交場に
椿山荘(現・ホテル椿山荘東京)は山県のプライベート御殿。
当時の国民は、「また税金で贅沢している」と怒ったが、反論した記録は山県の側近にすらない。
② 妾が多数、愛人トラブルも絶えず
山県は“女好き”で有名。政治家の妻との浮気説まであり、特に晩年も若い女性を囲い、それを政府・軍の関係者が黙認していた。
理由は簡単。
山県に逆らうと政治生命が終わったから。
③ 京都・大津にも別邸
山県は京都大好きで、高級料亭・茶屋遊びも多かった。
大津の別邸では、“若い女性を侍らせて飲む山県”の記録が残っている。
④ 批判した新聞を潰す
当時の新聞は山県批判ができなかった。
書いたら
記者が飛ばされる
その新聞の政治ネタが干される
出版停止処分
などの“暗黙の圧力”がかかる。
山県は 内務省(警察・検閲)+軍+官僚機構 を握っていたため、完全に“無敵”。
国民は怒っていたが“どうしようもなかった”
一般庶民は山県の贅沢に不満があったが、口にすると逮捕・圧力の時代。
国会議員も山県に逆らうと次の選挙で行政から嫌がらせを受ける。
つまり、
制度的にも、社会的にも、山県を止めるブレーキが存在しなかった。
嫌われた山県有朋
山県以外の5人に共通するのは「立派さ」ではなく“濃さ”と“情熱”
- 完璧ではない
- 欠点だらけ
- 女・金・遊びに強い
- しかし情に厚く、弱者には優しい
- 行動力が異常に高い
- 決断の瞬間に迷わない
つまり彼らは、人間の弱さと強さを丸ごと抱えた“情熱の怪物”だった。
日本を動かしたのは、“立派な人”ではなく“情熱で生きた人間”だった
歴史は綺麗事では動かない。幕末維新を動かしたのは、
- 情に厚く
- 惚れられ
- 決断は速く
- 命を張って行動し
- 常識を壊した
そんな“濃すぎる男たち”だった。
彼らは完璧だから偉かったのではない。人間臭いまま、情熱で生きたからこそ、時代を動かす力になったと思う。
